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長崎市事件(長崎地判令3.3.9労経速2456号27頁)

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長崎市事件(長崎地判令3.3.9労経速2456号27頁)

退職の意思表示が統合失調症により意思表示を欠くとして無効とされた例

1.事件の概要

✕は、昭和62年4月1日Y市に採用され、以後、総務部等における勤務を経て、平成25年4月1日から、同市選挙管理委員会の事務局で勤務する者である。
✕は、平成4年10月17日にQ1クリニックを受診して「幻覚・妄想状態」と診断され、同月19日から平成5年1月3日までの間、病気休暇を取得した。その際、✕はY市に診断名を「神経衰弱状態」とする、Q1クリニックのP4医師作成の診断書を提出した。
✕は、平成17年3月15日から同年5月31日までの間、病気休暇を取得した。その際、✕は、Y市に、診断名を「統合失調症」とするQ2病院のP5医師作成の診断書を作成した。その後、✕は、同年6月1日復職し、以降平成28年3月31日まで休職していなかった。
✕は、平成28年3月24日、選挙管理委員会宛の退職届を提出した。同委員会は、同月31日付けで、✕に対して依願免職処分をした。
✕は、上記退職願提出は統合失調症が悪化したことにより、意思能力を欠く状態で行われたものであるとして、本件処分を不服として平成28年10月28日に審査請求をしたが、これが同29年10月31日に却下されたので、同30年3月26日に本件訴訟を提起した。
なお、長崎家庭裁判所は、同30年9月21日、✕につき、✕の父であるP1を保佐人とする保佐開始の審判をなし、P1に訴訟代理権が付与されている。

2.各当事者の主張

※他にも争点がありますが、退職願の有効性に絞って記載します。

✕の主張

① 意思能力の不存在
✕は、本件退職願を提出した平成28年3月24日当時、平成4年に発症して以来通院治療を続けていた統合失調症が悪化したことにより、退職願という自身の公務員としての身分を失わせることになる意思表示について正常に判断することが可能な意思能力を有していなかった。

② 錯誤
✕は、自分はY市の職員であって出向先である処分行政庁の職員ではないと誤認しており、処分行政庁に本件退職願を提出してもY市の職員としての身分は失われないと考えていた。
したがって、本件退職願についてはその表示行為の意味について要素の錯誤がある。
✕が本件退職願を提出したのは、P2事務長からセクハラ、パワハラの被害を受けていたためY市の本庁への異動を希望していたにもかかわらず、これが認められず、かえって琴海行政センターへの異動を命じられ退職勧奨されていると感じたことが理由である。ただし、上記セクハラ、パワハラ被害や退職勧奨は、統合失調症による✕の被害妄想であり、現実には存在しない。
したがって、本件退職願には動機の錯誤がある。✕は、上記の動機を選管委員会やY市の人事課に伝えている。
上記のとおり、本件退職願は✕が意思能力を喪失していたことにより、又は✕の錯誤により無効であり、無効な本件退職願に基づいてされた本件処分は違法である。

③ 信義則違反
Y市は、本件退職願が提出された際に✕の両親や主治医、Y市の産業医に✕の意向を確認させること、本件退職願の提出が✕の精神疾患の影響によるものではないことを確認するまでは依願免職の手続を進めないこと、✕に病気休暇を与えたり休職処分としたりすることで治療の機会を与えることといった合理的配慮(障害者雇用促進法36条の2から36条の4にいう、雇用の分野における障害者と障害者でない者との均等な機会の確保等を図るための措置のこと。以下同じ。)
しかし、Y市は合理的配慮を何らしていないから、本件処分は障害者雇用促進法に違反しており、信義則(民法1条2項)に反する違法な処分である。

Y市の主張

① 意思能力について
Y市は、✕が本件退職願を提出した際、✕の辞意が真意に基づくものであること及び✕の意思能力に問題がないことを確認しており、本件退職願の提出の際、✕が意思能力を欠いていたとは認められない。

② 錯誤について
本件退職願の宛名は、P3係長の指示を受けて訂正されるまで「長崎市長殿」とされていたのであり、✕が、選管委員会に本件退職願を提出してもY市の職員としての身分は失われないと考えていたとは認められない。

③ 信義則違反
✕は、統合失調症により病気休暇を取得することがあったとはいえ、その期間は長期にわたるものではなかったし、✕の担当する職務が統合失調症によって制限を受けていたわけではない。したがって、✕は、「精神障害・・・があるため、長期にわたり、職業生活に相当の制限を受け、又は職業生活を営むことが著しく困難な者」(障害者雇用促進法2条1号)とはいえず、そもそも同法にいう障害者に該当しない。
仮に✕が障害者に当たるとしても、本件処分が障害者雇用促進法に違反しているとは認められない。

3.判決の概要

(1)✕は、上記✕の主張①のとおり主張するところ、意思能力の有無は、対象となる法律行為の難易等によって変わり得る。本件で問題となる退職の意思表示は、公務員としての身分を失うという重大な結果をもたらすという点で公務員である個人によって極めて重要な判断であるから、それを行うのに必要な判断能力も相応に高度なものであると考えられる。
そこで、✕の当時の判断能力の程度を検討する。

(2)ア ✕は、平成4年10月17日Q1クリニックにおける受診を開始しているが、受信後間もない頃の診療録には既に統合失調症を前提とした記載がる。その後、平成27年12月26日まで、統合失調症の治療のため、Q1クリニックのほか、Q2病院に通院していること、P7医師は、平成29年11月28日、✕につき統合失調症と診断し、その発生年月日を平成4年としていることからすれば、✕は、遅くとも平成4年10月には統合失調症を発症していたものと認めることができる。
イ 次に、本件退職願提出時の✕の症状について検討すると、✕は、平成25年4月に選管事務局に異動して以降、職場において問題を起こすことなく仕事を行う一方、平成26年頃から、家庭との会話や入浴・睡眠をせず、自室に大量の食品や衣類等を持ち込むなど、自宅における異常な行動が増えていた。また、平成27年12月の職場離脱行動を境に、職場においても、独り言などの奇異な行動をとるようになり、本件退職願を提出する前日(平成28年3月23日)には、異動の内示につき大声で不満を述べるなどしていた。
このように、✕は、平成27年12月には、自宅だけではなく、職場においても奇異な行動をしていたのであるが、これは、服薬を中断すると統合失調症の症状が悪化するにもかかわらず、✕がこれをしなかったために生じたものといえる。
そうすると、平成27年12月以降、✕の統合失調症は悪化し続けていたものといえるのであり、本件退職願を提出した平成28年3月24日時点では、✕の統合失調症は相当程度悪化していたといえる。
ウ ✕は、本件退職願提出直後である同月30日時点において、P3係長が✕母に引取りを依頼するほどの異常な言動がされ(30日異常行動)、さらに同日からQ2病院の隔離病棟に医療保護入院し、入院後も、妄想や支離滅裂な言動をし、P7医師から、入院当初について、成年被後見人相当であったと診断される状態であった。
エ 以上のとおり、✕は、遅くとも平成4年10月には統合失調症を発症し、平成27年12月以降、悪化し続け、平成28年3月24日時点で相当程度悪化しており(上記イ)、その直後に30日異常行動に及んで同日のうちに医療保護入院に至っているうえ、✕の入院当初の心身の状態は、精神科の医師によって成年被後見人相当と診断されるほどであった。これらからすれば、本件退職願を提出した平成28年3月24日時点において、✕の判断能力は、統合失調症のため、自身の置かれた状況を正確に把握したり、自身の言動がどのような影響をもたらすか、特にどうのような法的効果をもたらすかについて判断したりすることができない程度であったと認めるのが相当である。
なお、✕の30日異常行動や医療保護入院は、本件退職願の意思表示がなされた後の事情ではあるものの、30日異常行動及び入院時において✕に異動への不満による興奮が認められるところ、異動の内示は、本件退職願の前日になされているのであるから、同意思表示がなされるよりも前の事実(異動の内示)と、同意思表示がなされた後の事実(30日異常行動及び医療保護入院)との間に関連性があるというべきであるし、30日異常行動と医療保護入院は、本件退職願を提出した当時の判断能力を検討するに当たって、その後の30日異常行動や医療保護入院の事実を考慮することも許されると考えられる。

(3)上記判示を前提に、本件退職願による意思表示の有効性を検討すると、上記(2)エのとおり、平成28年3月24日時点において、✕は自身の言動がどのような法的効果をもたらすかについて判断することができない状態であったといわざるを得ない。そうすると、少なくとも、公務員としての身分を失うという重大な結果をもたらす退職の意思表示をするに足りる能力を有していなかったというべきである。
よって、本件退職願による意思表示は、✕のその余の主張を判断するまでもなく、意思能力を欠く状態でされたものであり無効である。

4.解説

民法第3条の2の規定により、法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有しなかったときは、その法律行為は、無効となります。なお、平成30年民法改正まで明文規定はありませんでしたが、以前より、意思能力を欠く者の意思表示に基づく法律行為は、学説及び実務上無効であると解釈されて、本条は判例法理になっていました(大審院明治38年5月11日判決)。

民法第3条の2
法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有しなかったときは、その法律行為は、無効とする。

本件においては、退職届を提出し退職の意思表示をした際の✕の意思能力の有無が問題なっています。
統合失調症であれば、必ず意思能力が無いと判断される訳ではありませんが、本件においては、医療保護入院時に医師により、成年被後見人相当であったと診断される程でした。
成年被後見人とは、民法7条に基づき家庭裁判所が「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者」と判断する者で、日用品の購入その他日常生活に関する行為を除き、成年被後見人の法律行為は取り消すことができます。

民法第7条 精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、未成年後見人、未成年後見監督人、保佐人、保佐監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、後見開始の審判をすることができる。

民法第9条
成年被後見人の法律行為は、取り消すことができる。ただし、日用品の購入その他日常生活に関する行為については、この限りでない。

その成年被後見人と同程度とかなり重症であったことから、意思能力が無いと判断され、退職の意思表示も無効とされました。