社会保険労務士川口正倫のブログ

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賃金の支払場所(持参債務と取立債務)

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賃金の支払場所(持参債務と取立債務)

通常、こんなことは問題にもなりませんが、特に定めがない場合、賃金は会社に取りに行くべきものなのでしょうか?、それとも、会社が従業員宅に持っていくものなのでしょうか?

賃金というのは労務の対価として発生する債権ですが、債権の弁済について民法484条1項は次のように定めています。
なお、この規定は任意規定なので、就業規則等により当事者間で別の定めがある場合は、そちらが優先適用されます。

第484条
1.弁済をすべき場所について別段の意思表示がないときは、特定物の引渡しは債権発生の時にその物が存在した場所において、その他の弁済は債権者の現在の住所において、それぞれしなければならない。

特定物とは、「個性に着目して取引の対象となっている物」を言います。
例えば、犬や猫等の動物をペットとして購入する場合、通常はこの『チワワ』やこの『シャム』を気に入って購入します。品種や性別が同じあっても、この『チワワ』やこの『シャム』に代替できる物はありません。特定物とは、このように代替不可能な物です。
逆に、カルビーの『じゃがりこ サラダ』を買う場合、通常はどの『じゃがりこ サラダ』かには着目しません。例えば、スーパーで購入した後に、もし賞味期限が切れていたことに気づいても、切れていないものと交換してもらえば特に問題ありません。こういう代替可能な物を不特定物と言います。

民法484条1項は、対象となる債権が特定物・不特定物に応じて、引渡し場所を

特定物の引渡し:債権発生の時にその物が存在した場所
不特定物の引渡し:債権者の現在の住所

と定めているのです。

なお、弁済の場所が債権者の住所である債務を持参債務、弁済の場所が債務者の住所である債務のことを取立債務と言いますが、不特定物の引渡しは持参債務であると言うことができます。

さて、それでは賃金の支払は特定物の引渡し、不特定物の引渡しのいずれに該当するのでしょうか?
金銭というのは、明らかに個性に着目して引き渡す物でありませんので、不特定物です。従って、賃金の支払は不特定物の引渡しなので、債権者である従業員の現在の住所で金銭を引き渡す、持参債務となります。
ただし、会社で賃金を支払うことが、長期間反復継続して行われていたような場合には、そのような労使慣行が民法92条により慣習として認められることにより、使用者の住所が賃金の支払場所とされることもあり得ます。(詳細はこちらを参考:
商大八戸ノ里ドライビングスクール事件(大阪高判平5.6.25労判679号32頁) - 社会保険労務士川口正倫のブログ)

このような賃金の支払場所が、実際に問題となった裁判例として、パールシステムズ事件(大阪高決平10.4.30)があります。
東京に本社があるY社の従業員✕が、神戸の自宅で在宅勤務してたところ、Y社に解雇されたため、Y社に従業員としての地位確認等を求めて、神戸地方裁判所に提訴した事例で、裁判籍が問題となりました。
訴訟する際には、どこの裁判所に訴えを提起すべきか(土地管轄)が問題となりますが、その基準となるものを裁判籍といいます。簡単に言えば、裁判籍とは、事件の当事者または訴えと密接に関連する一定の地点のことで、この裁判籍の所在地を管轄区域内にもつ裁判所に土地管轄が生じることなります。

裁判籍は、普通裁判籍特別裁判籍の2種類があり、さらに特別裁判籍独立裁判籍関連裁判籍(併合請求の裁判籍)に分けられ、概説すると次のようになります。

普通裁判籍:事件の内容や性質に関係なく、一般的に認められる裁判籍で、自然人の場合は被告の住所、法人については、被告の主たる事業所または営業所等となります。

特別裁判籍:普通裁判籍のように一般的に認められるものではなく、一定の種類の事件について特に認められる裁判籍で、独立裁判籍と関連裁判籍(併合請求の裁判籍)に分けられます。
独立裁判籍:普通裁判籍と競合して管轄が認められる裁判籍(「競合」という法律用語ができ来た場合は、どちらも選択できる程度の意味です。例:賃金全額請求と休業手当の請求の競合という場合、賃金全額と休業手当を選択して請求できるという意味です。)で、民事訴訟法5条に15種類列挙されています。そのうち、財産上の訴えに関する裁判籍として、義務履行地(同条1号)があります。

1つの事件について普通裁判籍と特別裁判籍が競合する場合は、いずれの裁判籍所在地にも土地管轄があり、どの裁判所に訴訟を提起するかは原告が決めることができるので、パールシステムズ事件のXは、Y社の本社がある東京地方裁判所と賃金支払の義務履行地のいずれにも提訴することが可能です。

そして、✕は、賃金支払方法について就業規則等に定めがなく、✕の自宅がある神戸市(実際には、振込で神戸市内の金融機関に賃金は支払われていた)を義務履行地として、神戸地方裁判所に訴え提訴しました。

第一審は、給与支払方法が銀行振込の場合、振込手続を行った時点で支払が確定するため、Y社が銀行銀行の支店等に送金手続をした時点で義務の履行を完了しているとして、賃金債務の義務履行地は振込送金先である神戸市内の支店ではなく、神戸地方裁判所に裁判籍はないとしましたが、✕が即時抗告しました。
これに対して、大阪高裁は、振込手続を行ったとしても、送金手続の過誤等で債権者の指定口座に入金されない可能性を指摘し、義務の履行が終了するのは指定口座に入金されたときであるとし、「本件においては、Y社の本店所在地等に✕が出向いて取立ての方法で給料を支払うことは予定されておらず、民法の原則のとおり✕の住所地で持参の方法で支払うことを予定しており、上記口座振込の方法による支払は、上記持参の方法による支払のためにとられていると解される。そうすると、賃金支払義務の履行地は、✕の住所地であるというべきである。」とし、神戸地方裁判所での裁判籍を認めました。

実務上、✕の住所地を義務履行地とするのを防止するために、就業規則等に「賃金は会社の事務所で支払う。ただし、従業員が申出た場合は、指定する金融機関に振込む。」と記載しておくことが考えられます。そうすることで、本店所在地等に従業員が出向いて取立ての方法で給料を支払うこと」を予定していることになり、「口座振込の方法による支払は、取立ての方法による支払のためにとられている」と判断される可能性が高くなるためです。
なお、「上記口座振込の方法による支払は、上記持参の方法による支払のためにとられていると」されていることから、Y社の本社近くの金融機関を指定するだけでは、足りないと考えます。