社会保険労務士川口正倫のブログ

都内の社会保険労務士事務所に勤務する社会保険労務士のブログ



みずほ証券事件(東京地判令3.2.10労経速2450号9頁)

バナー
Kindle版 職場の出産・育児関係手続ガイドブック~令和の常識~
定価:800円で好評発売中!!


にほんブログ村
続き

みずほ証券事件(東京地判令3.2.10労経速2450号9頁)

留学終了後間もなく退職した社員に対する留学費用返還請求が認められた例
※原告を✕、被告をYと記載するのが判例を記述する際のお作法です。本件は、使用者が従業員に対して、留学費用返還請求を求めて提訴した裁判例であるため、使用者側が✕社、労働者側がYとなります。(一般的な労働関係の裁判例では、労働者側が✕、使用者側がY社となることが多いです)

1.事件の概要

Yは、総合証券会社である✕社に平成23年4月に入社した。同26年10月、Yは✕社の公募留学制度の選考に自ら応募し、同27年1月、公募留学候補生として選抜され、同28年7月から同30年5月までの間、同制度を利用して留学したのち(同年6月10日帰国)、同年10月31日、自己都合により✕社を退職した。
✕社の公募留学制度は、国際的視点に立った視野の広い人材の育成を主旨として、経営学修士(MBA)過程設定大学、ロースクール、公共政策大学院等を進学先として制定し、進学先地域については、アメリカ、ヨーロッパ、アジア及び国内の4地域から学校の選択が可能なものであった。
Yは、上記趣旨に従って自ら志望校を決定し、平成28年3月、志望校のうち第7志望のバージニア大学のMBA学科に合格し、同大学に進学することとした。なお、Yは同留学に際し、✕社に対し、「留学期間中に・・・特別な理由なく退職する場合あるいは解雇される場合、また、留学終了後5年以内に・・・特別な理由なく退職する場合あるいは解雇される場合には、当該留学に際し貴社が負担した留学に関する以下の費用を退職日までに遅滞なく弁済することを誓約いたします。」と記載された誓約書を提出していた。
✕社は、留学終了後5年以内に自己都合により退職したYに対し、Yが留学した際に✕社が支出した留学費用は✕社がYに貸渡した貸金であるとして、消費貸借契約に基づき、留学費用3045万0219円及び遅延損害金の支払い等を求め、提訴した。

2.判決の概要

争点1 消費貸借契約の成否について

(1)留学費用に関する返還合意の有無
ア Yは、留学前、本件誓約書に自ら署名押印した上で、それをX社に提出しているところ、同誓約書には、「留学期間中にX株式会社を特別な理由なく退職する場合あるいは解雇される場合、また、留学終了後5年以内に、留学後復帰したX株式会社及びXグループ会社(その後のXグループ内での異動先会社を含む)を特別な理由なく退職する場合あるいは解雇される場合には、当該留学に際し貴社が負担した留学に関する以下の費用を退職日までに遅滞なく弁済することを誓約いたします。」と記載されており、Yが留学を終了してから5年以内にX社を自己都合退職などした場合には、X社が支払ったYの留学費用を返済するというYの意思が明確に表示されているといえる。
したがって、X社とYとの間には、本件誓約書記載の留学費用に係る支給金について返還する旨の合意が成立したものと認めるのが相当であり、Yが留学終了後X社に5年間勤務した場合には同支給金に係る返還債務を免除する旨の特約付きの消費貸借契約が成立していると認められる。

イ  この点、Yは、本件誓約書に基づく合意はYの自由な意思に基づくものではないとして、その合意は無効である旨主張する。
Yは、留学前に開催された公募留学候補生向けのガイダンスにおいて、X社から、帰国後5年以内にX社を退職した場合には一切の留学費用をX社に返済する必要があり、その旨記載された誓約書を渡航前にX社に提出する必要があると説明されている。加えて、Yは、その後留学前に開催された公募留学候補生に対する渡航前のオリエンテーションにおいて、X社から、本件誓約書と同内容の誓約書を渡された上、帰国後5年以内にX社を辞める場合には留学関連費用の一切を返してもらう旨説明されている。このように、Yは、本件誓約書を提出する前に、本件誓約書の内容について十分な説明を受けており、同誓約書の内容自体も前記記載のとおり不明確なものではなかったことからすれば、Yは、本件誓約書の内容を理解した上で、それに自ら署名押印してX社に提出しているといえるから、本件誓約書に基づく留学費用の返還に係る合意は、Yの自由な意思に基づくものであったと認めるのが相当である。
Yは、本件誓約書に基づく合意によって返済義務を負う可能性のある費用の内容や金額の目安といった具体的な説明は受けていない旨主張するが、X社はYに対し、前記のとおり、本件誓約書の内容について、帰国後5年以内にX社を退職した場合には留学費用の一切を返してもらう旨説明しているし、留学前の時点で個々人の留学に関する具体的な金額の目安を示すことは困難であるから、本件誓約書に基づく合意に関するX社のYに対する説明が不十分であったとはいえない。また、Yは、本件誓約書の内容について十分に検討する期間を与えられていなかったなどと主張するが、X社は、Yに対し、遅くともYが本件誓約書に署名押印した日の約1か月前には、本件誓約書と同じ内容の誓約書を配布している上、それ以前から、本件誓約書の内容については説明していることからすれば、Yが本件誓約書の内容を十分に検討することができなかったとは認められない。
よって、Yの主張は採用することができない。
ウ  また、Yは、留学費用の支給は、X社の就業規則である人事事務手続書及び公募留学生処遇書に基づいて支給されたものであるから、当該支給は、消費貸借契約ではなく、X社Y間の雇用契約に基づいて支給されたものであり、本件誓約書に基づく合意は労働契約法12条による無効である旨主張する。
人事事務手続書は、海外勤務者等の服務、給与、手当、福利厚生等について必要な事項を定めたものであり、ここでいう海外勤務者等とは、発令に基づき本邦外で勤務・留学・研修している職員等と定義付けられているところ、Yを含む公募留学生は発令に基づき留学している者ではないから、人事事務手続書の規程が適用される対象ではない。公募留学生の処遇は、公募留学生処遇書に定められているところ、同処遇書には、そこに記載のある公募留学生の赴任時の引越補助や各種手当等の項目以外は海外勤務者の基準を適用する旨記載されているが、公募留学生は、留学費用に関して、留学が終了してから5年以内にX社を自己都合退職などした場合にはX社が支払った留学費用について弁済する旨記載された誓約書をX社に提出した上で留学していること、また、公募留学生は、後述のとおり、X社の業務命令に基づいて本邦外で業務に従事することが想定される海外勤務者とは異なり、留学中X社の業務そのものに従事することは予定されていないこと、そのため、X社は、公募留学生と海外勤務者を区別した上で、公募留学生については公募留学生処遇書を別途作成し、上記誓約書の提出を義務付けていることを踏まえれば、公募留学生に適用のある海外勤務者の基準とは、あくまで留学費用に関する各費用項目の金額の基準であると解するのが相当である。すなわち、公募留学生処遇書の上記記載は、公募留学生に貸与される金額の基準を海外勤務者に支給される金額と同等のものにすることを意味するのであって、公募留学生に対して海外勤務者に支給される費用と同等の費用を支給することを意味するものと解することはできない。
そうすると、人事事務手続書及び公募留学生処遇書の規程に基づいてX社からYに留学費用が支給されたとはいえないから、留学費用の支給がX社Y間の雇用契約に基づくものと認めることはできない。また、本件誓約書は、上記規程を労働者側に不利益に変更するものとはいえないから、本件誓約書に基づく合意について労働契約法12条の適用はない。
Yは、X社が留学費用の支出に関する領収書の宛名をX社とするよう指示していること、公募留学生に支給される海外月例給は雇用契約に基づく支給と整理されるところ、海外月例給と同一の規程で処理される留学費用に関する各種手当を海外月例給と区別する理由がないことなどから、留学費用は消費貸借契約ではなく雇用契約に基づいて支給されたものである旨主張する。しかし、X社が、公募留学生の大多数が留学後X社等で勤務を継続することで留学費用に関する債務を免除されている実態を踏まえて、同費用に係る領収書の宛名をX社とするよう指示していることから直ちに、留学費用の支給が消費貸借契約に基づくものではないということはできない。また、海外月例給は給与であるから留学費用とはその性質が異なるものであり、公募留学生は同費用について別途前記誓約書をX社に提出した上で留学していることからすれば、留学費用を海外月例給と同様に解することはできない。
よって、Yの主張は採用することができない。

エ 以上によれば、X社とYとの間には、本件留学制度に基づく留学に際しX社が負担したYの留学費用について、労働契約とは別個の消費貸借契約が成立していることが認められる。

(2)留学費用に関する返還合意の対象
ア  本件誓約書には、返済の対象となる留学費用として、「1.本人及び帯同家族の現地渡航費用」、「2.学費及びこれに準ずる費用」及び「3.現地生活に係わる補助費用」が挙げられており、それぞれの項目において、それぞれに該当する費用が明記
されている。
この点、Yは、本件誓約書には、X社がYの留学に関して負担した費用のうち、渡航先の住居が確定する前の宿泊費、赴任前のオリエンテーション費用、倉庫保管費用(18か月分)、サマースクールの宿泊費及びスタディトリップ費用についてはいずれも明記されていないから、これらの各費用は返還義務の対象とならない旨主張する。
Yは、留学前に開催された公募留学候補生向けのガイダンスにおいて、X社から、帰国後5年以内にX社を退職した場合には一切の留学費用をX社に返済する必要があると説明され、その後留学前に開催された公募留学候補生に対する渡航前のオリエンテーションにおいても、X社から、本件誓約書と同内容の誓約書を渡され、帰国後5年以内にX社を辞める場合には留学関連費用の一切を返してもらう旨説明されている。このように、X社はYに対し、留学前のガイダンス及びオリエンテーションにおいて、一定の場合には留学に係る費用の一切をX社に返済してもらう旨説明していること、留学前の時点において、個々人の留学に関する具体的な支出の細目を全て把握することは困難であるし、留学に関して出捐する可能性のある費用の全てを誓約書に記載することは現実的ではないこと、また、本件誓約書においても、返済の対象となる留学費用として、「2.学費及びこれに準ずる費用」の項目では、それに該当する具体的な費用が記載された後に「その他これらに付帯する費用」と記載され、「3.現地生活に係わる補助費用」の項目でも、それに該当する具体的な費用が記載された後ろに「等」と記載されていることからすれば、本件誓約書に記載された返済の対象となる留学費用の各項目にそれぞれ該当する費用として記載されている費用はあくまで例示に過ぎず、返済の対象は、これらの具体的に記載された費用に限定されるものではなく、Yの留学に関してX社が負担した費用の全てであると解するのが相当である。Yが指摘する上記各費用は、いずれもYの留学に関する費用であることは明らかであるから、X社とYとの間の返還合意の対象であると認められる。
したがって、Yの主張は採用することができない。

イ よって、X社とYとの間には、X社が請求した留学費用の全て(合計額3045万0219円)について返還の対象となる旨の合意が成立していると認められる。

(3)小括
以上によれば、X社とYとの間には、Yの留学に関してX社が負担した費用の全てについて、Yが留学終了後X社に5年間勤務した場合にはその返還債務を免除する旨の特約付きの消費貸借契約が成立していると認められる。

争点2 返還合意の性質と労働基準法16条違反の有無について

(1)Yは、仮に、X社Y間に留学費用の支給について消費貸借契約が成立していたとしても、同契約は労働基準法16条に違反し無効である旨主張する。
この点、労働基準法16条が、使用者が労働契約の不履行について違約金を定め又は損害賠償額を予定する契約をすることを禁止している趣旨は、労働者の自由意思を不当に拘束して労働関係の継続を強要することを禁止することにある。そうすると、会社が負担した留学費用について労働者が一定期間内に退社した場合に返還を求める旨の合意が労働基準法16条に違反するか否かは、その前提となる会社の留学制度の実態等を踏まえた上で、当該合意が労働者の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものか否かによって判断するのが相当である。
(2)本件留学制度の選考に応募するか否かは、X社の業務命令によるものではなく労働者の自由な意思に委ねられており、その留学先や履修科目の選択も労働者が自由に選択できるところ、Yは、国際的に活躍するバンカーになるために必要なスキル、経験、人脈等を身に付けることなどを目的として自ら本件留学制度の選考に応募し、自ら志望した大学への進学を決めて留学している。また、Yは、留学先の大学での履修科目や課外活動については自らの意思で決めており、基本的に、留学期間中の生活についてはYの自由に任せられていたものと認められる。Yは、留学期間中、履修科目の成果等についての報告、宿泊に伴い大学所在地を離れる場合や休暇の際の一定の届出の提出、公募留学候補生に対するバックアップなどをX社から求められているが、これらは、X社の業務に直接関係するものではなく、YがX社の従業員であることからX社の人事管理等に必要な範囲で求められているものにすぎない。Yは、留学期間中、X社からX社の採用イベントに関する協力を求められているものの、Yが同イベントへの参加をキャンセルする旨連絡した際には、X社は、Yに対し、あくまでお願いなので学業を優先するよう返答していることからすれば、これはX社の業務命令によるものではなく、あくまでX社がYに協力を依頼したものにすぎないといえる。このような本件留学制度の実態に加え、公募留学生の留学終了後の配属先は、必ずしも留学先大学において取得した資格や履修科目を前提とした配属になっていないことからすれば、本件留学制度を利用した留学は、X社の業務と直接関連するものではなく、また、X社での担当業務に直接役立つという性質のものでもないといえる。むしろ、Yを含む公募留学生は、本件留学制度を利用した留学によってX社での勤務以外でも通用する有益な経験や資格等を得ている。そうすると、本件留学制度を利用した留学は、業務性を有するものではなく、その大部分は労働者の自由な意思に委ねられたものであり、労働者個人の利益となる部分が相当程度大きいものであるといえ、その費用は、本来的には、使用者であるX社が負担しなければならないものではない。
したがって、留学費用についてのX社Y間の返還合意は、その債務免除までの期間が不当に長いとまではいえないことも踏まえると、Yの自由意思を不当に拘束し、労働関係の継続を強要するものではないから、労働基準法16条に反するとはいえない。
よって、Yの主張は採用することができない。

(3)小括
以上によれば、X社とYとの間の留学費用に関する返還合意は、労働基準法16条に違反するものではなく有効であるから、X社は、Yに対し、X社Y間の消費貸借契約に基づき、留学費用3045万0219円及び訴状送達の日の翌日である平成31年3月16日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の請求権を有する。

結論
以上の検討によれば、その余の点を検討するまでもなく、X社の請求は全部理由があるからこれを認容することとし、主文のとおり判決する。

3.解説

労働基準法16条は、労働契約の不履行に対して、違約金や損害賠償を予定することを禁止しています。

(賠償予定の禁止)
第十六条 使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。

例えば、「途中でやめたら、違約金を払え」という違約金や「会社に損害を与えたら○○円払え」という損害賠償額の予定を事前に盛り込むことが禁止されています。
戦前、労働契約の締結に際し、契約期間の途中で労働者が退職した場合は一定の違約金を支払う約定や、労働契約の諸種の契約違反や不法行為について損害賠償を予定する約定が行われ、労働者の足止めや身分的従属の創出に利用されていたという経緯があり、拘束的労働慣行を防ぐ趣旨です。
今日では、前近代的な違約金約定は見かけられませんが、労働者の能力開発促進の費用を金銭消費貸借契約として労働者に貸付、一定期間勤務することで返還免除するという形式を取るものが見受けられ、同条に抵触しないかが問題となることがあります。
この点について、判例は、労働者の能力開発促進の業務性の有無を重視する傾向にあります。
つまり、留学や研修の経緯・内容に照らして、当該企業の業務との関連性が強く労働者個人としての利益性が弱い場合は、本来使用者が負担すべき費用を一定期間以内に退職しようとする労働者に支払わせるものであって、就労継続を強制する違約金・賠償予定の定めとなり、労基法16条に抵触するとされます。
一方、業務性が薄く個人の利益性が強い場合には、本来労働者が負担すべき費用を労働契約とは別個の債務免除特約付消費貸借契約で使用者が貸し付けたものであって、労働契約の不履行についての違約金・賠償予定の定め該当せず、労基法16条に抵触しないと判断されています。
本件においても、「本件留学制度を利用した留学は、X社の業務と直接関連するものではなく、また、X社での担当業務に直接役立つという性質のものでもないといえる。むしろ、Yを含む公募留学生は、本件留学制度を利用した留学によってX社での勤務以外でも通用する有益な経験や資格等を得ている。」ことから、「本件留学制度を利用した留学は、業務性を有するものではなく、その大部分は労働者の自由な意思に委ねられたものであり、労働者個人の利益となる部分が相当程度大きいものであるといえ、その費用は、本来的には、使用者であるX社が負担しなければならないものではない。」とされ、また、一定期間が5年間という短い期間であったことから、労基法16条には抵触しないものとされました。